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いま現在考えていること、モチベーションなど

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はじめに

initium ; auditorium がリリースされてからもうすぐ一年半になろうとしています。

リリース当時私は転職したてで、とにかく早くスキルを身につけたいという強いモチベーションがありました。そして、時を同じくして最初の緊急事態宣言が発令され、演奏機会を失った音楽家たちが演奏の場を模索していました。

そうして試行錯誤の結果、できたのが initium ; auditorium という動画配信サービスです。

あの頃は、右も左もわからない中、ただ仕事の依頼が次々と消えていく演奏家たちの状況に対して、何か自分にできることはないかと必死でした。しかしあれから一年半が経ち、客席数の制限や人との交流の制限などはあるものの、演奏会自体は概ね開催できるようになり、また補助金も相まって金銭的な不安も当時に比べれば大きく改善しました。

では、今も熱心に開発を続けているのは一体どういうモチベーションがあるのか。今回はその点について書いてみようと思います。

※以下は個人の考えであり、所属する組織を代表するものではありません。

考えることが好き

私は考えることが好きです。小学生の時に軽いいじめのようなことを受けたことがありますが、その際も「人はどうしていじめをするのだろう」と考えてしまうくらいでした。

中学生になり合唱を始めると、CD や楽譜、さらには詩集まで購入し、一音、一単語に思いを馳せるということをよくやっていました。一聴してよく分からない曲も、練習を重ねるごとにだんだんと身に染みて分かってくるという体験もありました(考えてみれば、これが initium ; auditorium の『ここから、「わからない」を旅しよう。』というテーマに繋がる原体験だったのかもしれません)。

大学生になり東京に出てくると、美術館によく行くようになりました。六本木で美術館巡りをしたり、渋谷にある東急百貨店のジュンク堂書店で本を読んだ後、上階にある美術画廊に寄っていったりと、音楽のみならず芸術一般に興味を持ち出したのがこの頃でした。

美術画廊で無料配布していた作品集

↑ 美術画廊で無料配布していた作品集

展示は時として、世界の見方をガラリと変えるほどの衝撃をもたらします。今まで見ていたものを裏返しに覗き込むことによって、考えもしなかったようなことに気付かされる。自身の常識の範疇を超えたものに出会うことで、全く新たなことに気付かされる。その一瞬では抽象的にしか理解できなかったものが、長い時間をかけて咀嚼することで、自身の価値観すら変容させるような発見をもたらす。元々考えることが好きな自分にとって、芸術は無くてはならないものでした。

ゆっくりと衰退し、やがていなくなる

芸術は多様であるほど良い、なぜなら多様なほど新たな発見に満ちているからだ、というのが自分の考え方です。

数十年、数百年と続く伝統的な文化。今まさに生まれようとしている新たな文化。隆盛を迎え、大勢に認められさらに発展しようとしている文化。そのどれもがかけがえのないものだと考えています。

しかしながら、注目されなくなった文化はゆっくりと着実に衰退し、やがて気づかれることなくいなくなります。

先日、筑前琵琶職人がいまや一人しかいないという記事を目にしました。琵琶法師と聞けば平家物語を連想する人も多いと思いますが、琵琶の一種がいまや存続の危機にあります。かく言う私自身も、琵琶に複数の種類があることも、そんな状況にあることも、さらにはどんな音色がするのかも知りませんでした。

※洗足学園の伝統音楽デジタルライブラリーにある琵琶演奏のリンクを貼っておきます。

楽器職人がいないということは、楽器に対する需要が少ないということです。需要が少ないということは、奏者が少ないということです。奏者が少ないということは、演奏(とりわけ生演奏)を耳にする人自体少ないでしょう。演奏を耳にする人が少ないということは、やはり奏者の減少に拍車をかけます。こうした負のフィードバックがゆっくりながらも、しかし着実に進行することによって、文化はゆっくりと衰退し、やがていなくなります。

SNS 社会と相性の悪い文化

残念なことに、SNS 社会と相性の悪い文化というものが存在すると考えています。SNS 社会と書きましたが、「広告社会」と言い換えてもいいかもしれません。SNS でのファンによる感想等の発信も、今や一つの広告手段です。

注目されれば、それだけ広告の効果は高まります。逆に言えば、注目されるコンテンツを生み出せるクリエイターは、それだけ(広告における)価値が高まります。そして実際に広告案件を引き受ければ、クリエイターはさらに認知されるようになります。結果としてさらに(広告における)価値が高まり…という、正のフィードバックが生まれます。

こうした広告社会と相性が良い文化の代表例は、例えば、J-POP に代表されるようなポピュラー音楽です。流行歌、歌謡曲、J-POP と時代によって様々呼び方が変わるこのメインストリームの音楽は、ラジオ、テレビ、インターネットを通じてこの 100 年間広く浸透してきました。日本文化圏に長くいる人であれば、何かしらフレーズをそらんじることができるくらい、非常にありふれた文化です。

ポピュラー音楽は、名が体を表す通り、古くからメディアを通じて多くの人に親しまれてきました。学生の頃に流行った音楽が街中で流れれば、つい懐かしくなって耳を傾けてしまう。当然、ポピュラー音楽を手がけるクリエイターは、そのキャッチーさゆえ重宝されます。

Youtube はこの状況を巧みにシステム化した代表例です。動画を視聴する代わりに、広告を表示する。視聴者は続きを見たいがために『邪魔だけど無料で見れるし仕方ないか』と数秒から十数秒の広告を我慢する。その結果、知らず知らずのうちに広告の内容が頭に入り、単純接触効果によって、広告で宣伝した商品の売れ行きが上がったりする。

広告主はより多くの人に、そしてより関心のある人に広告を届けたい。クリエイターはバズることによって、より多くの人に広告を届け、またそれによって収益を得ることができる。Youtube(プラットフォーム)は、広告と視聴者をマッチングさせ、より興味のある広告を表示させ、その効果を高めることによって、広告収入を最大化する。

このような三方よしの構造を自然に構築しているという点で、Youtube は非常にクレバーな戦略を取っていると言えます。

では、広告社会と相性が悪い文化というのはどういうものでしょうか。今までの話題を反転させて考えると、少人数に対するコンテンツ、厚利少売(薄利多売の逆)なビジネス。例えば、クラシック音楽はこれに該当します。

もともと、多くても数千人のホールで、一席数千円のチケットを売るのが関の山な商売でした。対してポピュラー音楽は、ミリオンセラー(100 万枚以上の売上)がザラに起こるようなビジネスです。消費者の数が文字通り桁違いです。

もちろん、クラシック音楽の中でも状況は様々です。例えばピアノは、高度経済成長期のピアノブームの影響もあり、市場規模は大きいと予想されます。こうした市場規模が比較的大きいジャンルでは、トッププロや認知度の高いインフルエンサーなどは、生活にも困らないだけの状況を作り出すことも可能でしょう。

では、先ほどの琵琶の場合を考えたらどうでしょうか。琵琶のトッププロの名前をご存知でしょうか。琵琶で生計を立てている方について、どれだけご存知でしょうか。かく言う私自身、恥ずかしながらそこまで多くのことを知りません。最初に知るのは、琵琶の音色よりもその窮状という有様です。

広告社会は、視聴数という具体的な指標によって平等にチャンスが与えられています。しかしそのチャンスは、富豪の子孫に金銭的なチャンスが生まれながらにして与えられているのと同様に、公平ではありません。

文化の発展には時間がかかる

では、今から文化の発展に力を注げば良いではないか、という反論があるかもしれません。

例えばヒカキンは、Youtuber とボイスパーカッションという 2 つの文化を育んだ立役者です。ハモネプに出演したことをきっかけに知名度を伸ばしていくわけですが、当時は今ほど Youtube もボイスパーカッションも盛んではなく、影響も限定的だったことでしょう。しかし、絶え間ない努力と発信力によって、10 年かけてその地位を確立するに至ります。今では、Youtuber もボイスパーカッショニストも、数多くの方々が活躍しています。文化が興った成功例です。

しかし、それでも 10 年かかったわけです。実際に、GAFA など大企業においても、そのほとんどが 10 年、またはそれ以上の時間をかけて発展しています。

何度も例に上げてしまい関係者の方々には恐縮ですが、また琵琶を例に挙げて考えます。

まず、この広告社会においては注目されることが重要です。琵琶奏者が、何らかの手段を持って琵琶の可能性を魅力的に発信し、多くのファンを獲得することを考えます。果たしてどれだけの時間がかかるでしょうか。コンテンツの作成にはどれだけの労力がかかるでしょうか。

琵琶の奏者を増やそうと考えます。どれだけの人が興味を持ってくれるでしょうか。製作者が少ない中、決して安価ではない楽器をどれだけの人が購入できるでしょうか。

文化の発展に寄与する活動に励もうと考えます。自身が生活するための費用を稼ぐ、その時間と労力の上に、プラスアルファの活動の負担がのしかかります。どれだけの方がその生活に耐えられるでしょうか。

軽く考えただけでも、その大変さは容易に想像できます(だからこそ、いま第一線で文化の発展に寄与している方々には、頭が下がる想いでいます)。

モチベーションと今後の展望

私は、考えることが好きです。それを助長する、多様な文化が好きです。しかし、今まさに消えようとしている文化があるという事実が、一抹の不安を与えます。私のモチベーションは、こうした文化が存続し、発展し、またコラボレートすることによって、また新たな文化が花開いていくその一連を目撃し、自身の知的好奇心を満たすことにあります。

しかし、それには 2 つの課題があります。SNS 社会(広告社会)と相性の悪い文化が存在すること、そしてそうした文化の発展には長い時間がかかることです。

このうち、後者は当事者が解決するしかない課題です。その文化の魅力を分かりきっていない第三者が首を突っ込んでも、付け焼き刃で終わるでしょう。

対して、前者は単に構造の問題です。こうした課題は、構造の中にいる当事者が独自に解決するよりも、第三者の力を借りた方がうまくいく場合が多いと考えています。会社とコンサルタントの関係を考えれば、腹落ちするのではないでしょうか。

広告に頼らないビジネススキーム、その成功例は Netflix が代表例でしょうか。initium ; auditorium はその点でかなり近い戦略を取っています。異なる点は、Netflix はクリエイターと視聴者が分離しているのに対し、クラシック音楽周縁の分野は、演奏者層と視聴者層が被っている、つまりクリエイターでもあり視聴者でもある層がかなり厚いという点です。

裏を返せば、クリエイターにとって魅力的なサービスを提供すれば、その周りのクリエイターないし視聴者が集まります。この正のフィードバックを連鎖させるのが、多くのユーザーに使ってもらえるサービスに発展する道筋だろうと考えています。

initium ; auditorium はまだまだ発展途中のサービスです。文化の発展に寄与するどころか、知名度も乏しく、サービス自体の機能性も改善の余地が大いにあります。時間がかかることを承知の上で、少しずつ改善させていく必要があります。

同時にタイムリミットもあります。私が 60 歳になっても文化的体験を続けたいと考え、世代交代に 20 年かかると仮定したら、遅くとも 40 歳までには次世代を迎え入れる準備を整えなければなりません。残り十数年の間にどれだけのものを積み重ねられるかが、老後の自分の豊かさを決めるだろう、くらいの気持ちでいます。

結びに

現在、initium ; auditorium をはじめ、複数のプロジェクトに参画しています。解決方法はそれぞれ異なるものの、どれも文化を守り、興していこうとする点で共通しています。

一人では微力ですが、同じ考えを持つたくさんの方々がいれば、大きな発信力を持ちます。どうぞ温かい目で見守っていただければ幸いです。